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pepetto

ぺぺっと不機嫌

やっぱどうかと思うんですよ。

 

例によって恩恵のない会社にいるわけなのでふつうに腹立たしかったんですけど、
先月ですか。プレミアムフライデーが始まったらしいですね。

ネット上でも九割「愚作だ」という声が多かったようです。

 プレミアムフライデーで検索すると、
愚作じゃい!という呆れや怒りの声の中に、
なぜこんなに叩かれているのか?という記事を発見。
拝読させて頂きました。

記事を個人的に要約すれば、
・恩恵なんてもともとなかったんだから、平素通りなだけなのに不満を言うのは妬みだ。
・施行することでのデメリットなどない
ということらしい。

ひとつめはその通りだと思う。
なにが腹立たしいって、恩恵があった人たちってたぶん
はなっから生活に余裕のあるひとたちなんですよ。

そういうことを積極的に取り入れてくれる社会に生きてるひとたちは、そもそもプレミアムフライデーがなくてもバランスのとれた生活ができているんじゃないかと。

そもそも労働基準法の一日8時間労働ってのが守れていればプレミアムフライデーなんてわざわざ作らなくても、時間帯は違えど生活に時間はあると思うんです。

法が悪いのか人が悪いのかわからないけれど、現実では残業や働き過ぎの過労死、ブラック会社が問題になっている。
そのなかでも残業代が支払われない状況が蔓延してる現代で、お金も時間もない状態のひとたちが多いと思うんですね。

ほんとうにそういう国からの助けが欲しいのはそういう人たちなんですよ。
そしてそういう人たちの生きてる社会には、そういうシステムは降りてこない。
わたしんとこの会社も音沙汰ありませんでしたからね!

法で定められた労働基準すら守られていないのに、強制力のないものが通るわけがない。なんの助けにもならない。
恩恵のあった、たった2〜3%のひとたちが散財したとして、ボーナスがわたしのところにくるわけでもない。
これがわたしのやっかみというか、怒りなわけですよ。

で、ふたつめの「施行することでのデメリットなどない」。
これはそうではないと思う。

現在の貧富の格差はかなり大きいってニュースになっている。
この格差は良くないので解消しようとしているわけですよね。

わたしは歴史にも経済にも明るくないので想像ですけど、
治安が悪くなったり経済が回らなくなったりするんですか?

後者は別として、前者は想像つくんですよ。

この前ライザップでお客様のロッカーから現金を窃盗した方がいらしたように、
そういうことが蔓延るようになるのかな、と。

これって精神的な不満が起こす行動だと思うんですよ。
目先のことでいっぱいで、心に理性をおいておく余裕がない。
そしてそういう事件をそんなに重要視しない気もする。
人を殺して盗む事件もままある一方で、こっそり盗むタイプの窃盗罪ってそこまで怖くないのかなって。

もうこの時点で治安結構悪いと思うんですよ。
貧富の格差が結構なところまできているってことじゃなのかなって。

それでもってくるのが今回のプレミアムフライデー

このように日常的に積もっている不満は持っている。

そこへきて、より不満を助長させている気がしてならないんですよ。

いつも通りひたすら働いている手前がいて、そんななかでテレビでは偉い人が15時には退庁するとか抜かしてて。
いいよなあ偉い人はさあ〜〜ってなるのって当たり前のことでは?

現代では結構簡単に殺人が起こるし、昔ほど他人を人間としてみてない人ってたくさんいて、もしそういう人たちがぎりぎりの精神で耐えて生きていたら、プレミアムフライデーでごくごく恵まれた人たちが明るい時間から楽しそうにお酒とか飲んでたら殺意湧かないかなとか。

まあこれは想像力のなせる極論ですけどね。

でもなくないよな、と思う。そんな時代じゃないですか。

不満を解消すべき策が、不満を助長させている。
働いてる人の、働かなきゃいけない人のやる気を削いでいる。
これはデメリットじゃないかと思うんですよ。

わたしは後から知ったので、もうとくにあ〜あいいな〜程度でしたけど。

他の人にとってプレミアムフライデーって
どんな気持ちを起こすものだったんだろうと、
ふと思う午後です。

ではでは、お昼行ってきます!(16:00なう)

 

嫌いなもんは嫌いだけどね

いつの時代にもいるだろう、ぶりっ子。
大半の女子に嫌われておきながら冷たい態度であしらわれても、クラスの男子ときゃぴきゃぴ話して平然としてたあの子。

あの子はたぶん、上手に生きている。

 

わたしは今も昔も、惨めなものは嫌いで可哀想なものが好きだ。でろでろに特別扱いしたい欲求がある。
それは愛玩動物に向ける愛情に近く、友達とはまた別の部類で、無論、対等な立場の人間に向けてはいけないとわかっている。

ぶりっ子な彼女は、実際の見目より可愛く振る舞い、わざとらしく媚を売り、それに対して嫌悪を示すクラスの女子を小馬鹿にし、強がる。ひとりになりたくないから、なんとか取り繕いながらなんでもする。惨めだ。

わたしも他者の主観によれば、長いものに巻かれてふらふらへらへら、そのくせ本心では誰のことも憶ってない、それでもその徒党として加わっているのが惨めに見えただろうけど。

いや、自分でも惨めに思えていたから、事実惨めだった。認めます。認めたくないけど、認めた振りをします。その方がスマートそう。スマートでありたい。

で、ここで彼女がみんなに嫌われて、もうなににも取り入れなくなっていたら、わたしの中で彼女は「惨め」から「可哀想」に格上げされ、恐らくわたしは優しく声をかけ、可愛いなあと本心から思って関係を築いていただろう。

ところが彼女は男の子には好かれてしまった。そして好かれていることに気づいて利用し、それまで敵対していた女子を丸め込み、いじめっ子になった。

この時点でわたしは彼女が嫌いになった。
週代わりでいじめのターゲットをとっかえひっかえし、話すのはどうしようもない恋のお話ばかりのその他大勢の女子と同じになってしまったからだ。

2日にいっぺんくらい好きな人と親友が変わるし、なにが面白いのか他人に無謀な告白をさせたがる。

見てて面白いのは、元ぶりっ子の彼女は、まだぶりっ子だったことだ。本当はたぶん、いじめを楽しめていないし、好きな人も嘘だろう。親友だなんてこれっぽっちも思っていない。

でもうまいこと馴染んでいた。

そういう振りをしている。今もしているんだろう。
かわいい振り、弱い振り、強い振り、平気な振り、逃げてない振り、出来てる振り…生きてく上で振りは大事だ。

自分らしくいるためにも、振りをしておくことでそれが本当になることが多々ある。なりたい自分の振りをしていれば、真実なりたい自分でなくても他人の目にはなりたい自分で写っている。

それで十分ではないか。

それが学生時代からできていたというのは、自分のコントロールが出来ていたということなのだから、彼女はわたしよりずっと大人だった。
本心から納得の行動ではないわけだから実際は大人の振りなのだけど、振りが出来るということは大人だからなのであって…。堂々巡りだ。つまりほぼイコールでいいんだろう。

とにかく、振りが上手なぶりっ子だから、あの子はたぶんうまく生きている。

見習いたいね。かつては嫌いだったわけだけど、大人になって彼女の本来のすばらしさに気づいたということにしたい。

今なおこどもな自分を、過去から払拭していきたい。今、わたしは大人の振りの最中だ。つまり、彼女と一緒でぶりっ子だ。

たぶん、周りのみんなもぶりっ子だ。

年金を払わないひと

 

本当に本当に腹が立ったので聞いてほしい。

わが母が、職場の20代の若造に「俺らをもっと労わって大事にするべきっすよ。俺らの金で老後を暮らすんだから。俺らは下の世代がいなくて払ってもらえないのに年金払ってんだから」と言われたらしい。

 

そうだ。たしかにそうだ。

 

だけどお前、お前の親はもっと莫大な金でお前を育ててくれただろうが。親だけじゃない。いろんな所でお金って回って、それでお前今まで暮らしてこれたとか振り返って思わんかね。

 

少なくともわたしは、一生かけても親には敵わんと思うよ。わたしには無理だ。子供産んで学校行かせてって。

 

だからお前はお前を育ててくれた人のために年金を払えよ。これまでのを返せよ。恩とかじゃなくて、等価だよ。
年金ぽっちじゃ足りないほどだよ。

 

年金の他に老後の生活を支えてやるんですけどとか言い返してくるタイプのお前、親にしか世話になってないと思うなよ。


グズグズの日本でもきちんとお前を支えた行政はあるよ。そしてそれを運営してくれた功労者が年金をうけとる人たちかもしれんだろうが。

 

あまつさえ人の大切な家族捕まえて失礼にも程があるだろうよ。正直、てめえが金を払わなくても、ちゃんとわたしが母を大切にするから黙ってろよ。

 

マナーもない常識もない、思いやりも誠実さもない若造がうちの真面目で純粋で頑張り屋の彼女を下に見たことが気に食わない。腹が立つ。

 

労ってほしいなら仕事中にゲームしたり昼寝したり自分の職務以外に誰かがやらねばならない仕事を見て見ぬふりしたりせずに、何も言わずとも労ってもらえる程の働きをみせろよ。

 

年金って高いし大変だけど、わたしは「よかったね、自覚も持てないクソガキにも義務で返せる恩があって。義務を果たすことが恩を返すことになるなんて、簡単でわかり易くて幸せじゃん」と思うよ。事実わたしもそんなに人格者じゃない。だからせめて課せられたものや気づけたことだけは、できる限りやって胸を張ってたい。

 

わたしが正しいとは言わないけど、だれかんちのだれかをせめて優しく扱ってくれ。

 

ふつう、恩なんて見えないものを返したくても難しい。お金を渡すことでは返せない。老後の生活を支えるのは当たり前。気持ちなんてもっと渡し方が難しい。

 

だけど現代では義務として課してくれている。それがもちろんためになってないこともあるけれど、少なくとも年金は増えていくこれまでの功労者を労うのには必要じゃないだろうか。

 

功労者といえないクズもいただろうとは思う。そういうひとにお金を払ってあげたくないって思うのかもしれないけど、わたしはそれが今のお前だろと言いたい。職場の目上の人を見下し、職務規定にだけ従い思いやりもなくその上、義務を渋々だ。おまえがゆとりだと開き直るから、おなじゆとりとして一括りにされるんだ。いい迷惑だ。

 

そういうやつは払ってもらう立場になっても申し訳ないとか感謝とかないんだろう。

 

最近の若者はわたしの母に厳しい。お年寄りに厳しい。わたしにも厳しい。自分勝手で癇癪持ち。わたしもそれらと同年代だから、そんなふうにならないように、ゆとり世代だからってゆとりにあぐらかかないように。クズで〜すって開き直らないように。

 

正しく、人間でありたい。

 

と、別のところでアップしたんだが、それだけでは腹の虫がおさまらなんだ…。

涙と悲しみはイコールか。

涙がでるようになった。
今年ももう、あと少しだ。

6月、父方の親戚のお葬式があった。訃報を聞いた時は、おお…まじか…という、なんの色もついていない驚きという衝撃だった。

亡くなったのはわたしの叔母さんのお義母様で、こう言ってはなんだが、ただただ呼吸をしているような、そんな晩年だったように思う。
叔母さんは長いこと、それはもう大変な介護をしていた。

わたしがこの訃報を飲み込んで落ち着いた頃には、叔母さんが楽になれるなと思ったし、もうずっと意識もあるんだかないんだかで会話もなく反応もなくだったせいか、悲しみというものは正直、少しも浮上しなかった。
おぼろげに思い出される記憶と、老いて小さくなった姿があまりにも遠く、実感がないというのもあったのかもしれない。

式はまるで軽く、梅雨時期の不思議な気温と明るさと空気で、久しぶりに会う親戚と世間話をして、悲しみに溢れたものではなかった。

出棺になって、最後に顔を見て、花でお棺を埋めるとき、叔母さんがお棺に凭れるようにしゃがみこみ、泣いた。

叔母さんや、近所のひとが堰を切ったように泣き出して、驚くと同時に初めてわたしは、ひとの死を実感したのだ。
いのちはすでにないけれど、からだがそばにあるうちはまだ、みんな普通だった。からだが運ばれていくその直前に、本当に本当のお別れを実感したのだろうか。

みんな何度もひとの死を経験しているはずだ。そこにからだがあったって、亡くなっていることはわかっているはず。なのに。それとも、そのひとのことが自分の記憶のなかだけになってしまうことに泣くのだろうか。

そしてその涙は、悲しみなのだろうか。

わたしも泣いた。泣き崩れる叔母さんを見て、もらい泣きする母を見て。悲しいかと問われると、わからない。悲しいってどんななのか、正直わからない。でも泣くことがイコールではないように思う。

もっと複雑な気持ちだったような気がする。

人の死で泣くのはなぜだろう。
悲しいとはどういうものだろう。

数日後に、今度は母方の親戚のお葬式に参列する。
そのひととはつい最近いっしょに食事をした。
94歳、自然死だという。

この度のお葬式で、なにか一欠片でも「ひと」について得られればいいと思う。
そして、恐らく純粋な気持ちで涙する自分を、存分に不思議がって、考えられればいいと思う。

ただ、悲しみに満ちたものではないこの日本の文化は、不思議だ。

かつてこんなひとがいた、とふと思い出すことがある。

むかし、自分が学生だった頃ほんの少しだけ現文の授業を担当した先生がいた。
ほんの少し、というのは臨時の先生だったからで、彼女に問題があってほんの少しだったわけではない。

わたしは彼女の授業を受け始めて少しして、彼女を不思議に思うようになった。服装が毎日同じに見えたからだ。

膝丈のプリーツスカートと、ボーダーのTシャツにジャケット。タイツの色は時たま山吹色という目立つカラーになってはいたが基本的には紺色だった。

着替えてないんだろうか。帰宅していないのか。学校に泊まりこんでるのか。風呂に入っていないのか。
それに対して良し悪しの感情はなく、ただただ疑問だったのを覚えている。

今日、唐突にそんなことがあったと思いだしたのだけれど、今になれば彼女の行動は特筆して変なことではないと思える。

わたしだって、あのときは毎日同じ服装だった。わたしだけではなく、全校生徒がそうだったように、彼女にとってあの服装は制服だったのではなかろうか。

毎朝服を決めるのは面倒だ。決断には気力を使う。どんなに些細な事でも。そういった気力のことを最近ではメンタルエナジーというそうだ。

だからスティーブ・ジョブズはいつも同じ服装をしていたというのは有名な話だ。ISSEY MIYAKEに100着ずつ注文して全く同じタートルネックを一生着続けていたという。

決断することは他にたくさんある。気力は常に消費される。だから毎朝の服装選びにいちいち気力を消費していられない。
同じ理由でオバマも同じスーツを着用していたとか。

教師とは大変気力のいる仕事なのだと思う。わたしからすれば、大口叩いてばかみたいに騒ぎ、打たれ弱く直情的なクソガキと毎日顔を合わせるのだって嫌だ。気力がいくらあっても足りない。

臨時の彼女はおそらく、「なぜ臨時で急に教師が必要になったのか」を誰かに聞いていたに違いない。聞けばこの仕事は面倒事で気力勝負だとわかる。

きっと決めていたのだ。仕事用の服を。

ひとは時間が経った後で、過去の体験の答えに出会うことがある。
ひとつのアハ体験なのかもしれない。