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pepetto

ぺぺっと不機嫌

2015年に幼い時代を過ごすということ

当たり前に誰にでも中学時代はある。
その年の頃がいかに子供で、いかに判断力に欠けていたのかを知るのはせいぜい齢20過ぎたころか。

いや、高校生が中学の時のことを黒歴史だと話すくらいだから17、8歳で悟るのかもしれない。

誰にでもある中学時代は常に時代に流されていて、わたしの中学時代と今の中学生では常識も興味も勉強の範囲ですら違う。

今日、会社の先輩のいとこの悩みを聞いた。

彼女は中学生で、友達とのLINEに悩んでいるらしい。

そう聞いてわたしは、話の流れとかグループトークから弾かれてるとかそういうことかと思ったのだがどうも事態はもっと悍ましかった。

LINEにはトークのほかにタイムラインがある。

そのタイムラインにバトンと呼ばれるものが回されるのだと言う。
わたしの時代にもバトンはあった。

LINEは今ほど普及してなかったのかそれとも存在してなかったのか、わたしやわたしの周りは使っていなかったのでブログだとか前略プロフィールmixiといったSNSで回されたものだ。

そのときも『閲覧したら絶対に3人に回すこと!』とか『足跡で見た人はわかります!』だとか言って強制ではあったけど、事実そのことばの効力は微力だったように思う。

本当に足跡が見えたのかわたしは知らないし、バトンをやらなかったからと言ってそれがバレた試しはなかった。

ところが2015年現在、LINEで行われるバトンは名指しだという。

回す人は個人名で次の人を指名し、された方はいいね!で見たことを示し、さらに回す。
指名されてない人でも、いいね!をしなかった人は次の日からは無視されて存在を消されるのだという。

わたしだって結構なイジメを経験してきたわけだけど、わたしの時代は匿名性が加害者の武器だった。

それはそれでえげつなかったし最低の行為だったけど、その分逃げ道を作ることができた。
あまりいいやり方ではないけれど、加害者も被害者もわたしでない誰かでよかったのだ。ひとでなくても友達でなくても、なんでもだ。ものでも現実であったことのないひとでも。

だけどどうも時代が流れたのか、現代の加害者の武器は真逆だ。

これってすごく怖いことだと思う。

そのバトンが死刑宣告と同じに思えてしまうひとがきっとどこかにいるんだろう。

どうしていじめがあるのかとか、なくそうだとかそういうのは思わない。思っても考えても現状苦しい人は苦しいし、意味がない。

だけどどうかせめて、常に逃げ場のあるいじめ方であればいいのにと切に願う。

その逃げ道を見つけられるかどうかくらいは、自力で頑張ってほしい。
だれも助けてはくれないのは、その時代のそのイジメだけでないから強くあって欲しい。

その強さは精神的に折れない強さではなくて、逃げ道を見つける賢さというか小賢しさ。

わたしの持論だけど、全てにおいて原因は使うひとにある。
LINEが悪いというひともいるし、発達した機械や技術に全責任があるかのように考える人がいるけれど、それだけは違う。

必ず、悪意ある使い方をしたひとがいるというだけのこと。

それにしても、現在を幼いころに生きるという誰しも必ずあることがここまで苦しい時代になるとは。

世も末だなぁ。

写メばっかり、それも手元の食べ物の

カメラ女子が流行ったとき、
きっとおじさんおばさんは思ったと思う。

食べ物を温かいうちに食べずに、
ファインダーを覗いてどうするの?

もちろんわたしも思った。

わたしは家でも友人宅でも基本つくる側だ。
料理の上手い下手は好みの差。
だけど、とりあえずはおいしいと食べてもらえる。

姉と二人暮らしをしていたとき、わたしが先に食べるときもあった。

食べ終わっていても、姉の帰宅時間に合わせて温め直したり、完成の手前まで作っておいて姉が帰宅したら出来上がるように図ってつくっていた。

おいしいは好みの差。

だけど絶対的においしい、物理的な温度ではない温度があるように思う。

その絶対的においしい温度でサーブするために、つくる側がどれだけ骨を折っているか考えて欲しい。

それはカメラ女子やすぐになんでも写メってSNSに載っけるひとたちの自由を非難しているわけではない。本当に被写体の本質を広めたいだけならば、それはそれでいいと思う。

だけど、わたしからすればSNSになんでもパッシャパシャ撮ってる人たちは自慢がしたいのだ。

流行りのお店でかわいいスイーツを食べた。ほら、見てこんなにかわいいのって。

そうじゃなくて、見てこれすごくかわいいでしょ、この技術は素晴らしいよ!みたいな気持ちだったら、作り手もすこしは報われるのに。

食べずに撮ってツイート。やってることは同じだけど、根本的に気持ちが違う。

前者は作り手の気持ちをごっそり無視してる。

わたしはいちばん楽しい時の写真が少ない。
同じように一緒に遊んでいた友人も持ってなかったりする。

そのときそこにいたわたしたちは、みんなで全力でおいしいと思ったり楽しいと思ったりしてるからだと思ってるんだけど、どうだろうか。

よくわからないけど、楽しい時に写メられるとわたしは白ける。楽しくない。

ああ、このひとは今を楽しいと思うよりも後で写真をアップすることを考えてるんだなと思って不愉快に思う。

ひとを撮ればいいのに、手元の、目の前のちいさなものばかりだ。

やな感じ。

わたしもそうなのだろうか。ネットに写真を上げる前に今一度、考えてからにしようと思う。

死ぬなら勝手に死にやがれ!

電車への飛び込み自殺があった。
わたしへの実害といえば乱れたダイヤのせいでうまいこと帰省できなかったことぐらいだ。

ことぐらい、と言いながらわたしは自殺したひとに殺意を抱いている。

帰りのプランや時間配分を組み直し、迎えに来てくれている両親を長らく待たせてしまったし、なによりいつどの電車に乗れば良いのかわからぬまま1時間も立ち往生した。

疲れた。

帰りも遅くなった。散らばった肉片を片付けたひとたちに同情した。

こんな死に方でなければ、人に迷惑さえかけなければ同情されたかもしれないのに、こんな死に方を選ぶから死んでなおいろんな人にふざけんなよと思われるのだ。

そういう死に方しか選べないようなひとだから、生きてるあいだもうまいことできなかったんじゃないの?と思ってしまう。

わたしは冷酷で残忍でひととして最低なのかもしれない。

昔から自殺するやつは馬鹿だと思っている。

すごくバッシングされそうな発言だけど、だけどわたしの人生経験ではそう思ってしまうのだ。

自殺が悪いことだとは思わない。
ひとそれぞれ辛いこと、やるせないこと、どうしたらいいかわからないこと、どうしようもないことがあるんだと思う。

死にたいと思うことがあるんだと思う。

それにしたって、山で深く穴掘って、その中で焼身自殺とか餓死とかしたら、飛び込みよりよっぽど静かで迷惑も最小限、かつ運がよければ土に還れるのに。

そもそもなんでそんな死を選ぶか不思議だ。

保育園時代、兄が事故って植物状態になった。広い広い家にひとりで、集中治療室の前でいつ止まるやもしれない兄の心臓に念を送る家族を恨んだ。

わたしもその場にいたかった。遊んでくれた兄が死ぬならそのときそばにいたいし、不安な状態でひとりでいたくなかった。

2度、心臓は止まった。幸い3度目はまだない。

復活した兄は右半身麻痺で、障害者手帳
重度を意味するランク。家族全員が接し方や生活に戸惑った。

学生時代いじめがあった。
いじめる方にもいじめられる方にもなった。ストレスで視野が狭くなって、目が回って熱が出て、なんとか教室を出てトイレに行って吐いた。

保健室まで歩けなくて、良く見えない目で誰かがおぶって保健室に運んでくれた。保健の先生だった。どうしたの?と訊かれて具合が悪いと言った。なぜかと問われて、なにかいうより先に涙が出た。

泣いて、熱が上がって、一時間休んで、授業に戻った。

小学生の時、中学の時と何度かそういったことがあったけど、保健室で、誰かの前で泣いたのは吐いたあの時が最初で最後。

小学校高学年で、少しだけ自分に違和感を感じてそれから現在。

自分の性癖が少数派だと知って、そのことに関して家族や周りのひととの対応に悩んでいる。

自分が性的マイノリティかもしれないと思い至ったときの日記は、今見ても涙が出る。

なんとかしなくちゃとなんとか直さなくちゃと思い、それが無理なら普通を装おうとする自分が、今なお筆圧の強さと滲んだ水彩インクの中にいる。

社会人になった今、途方も無い人生の時間に気が遠くなって死にたいと思っている。
何が嫌ということもない。ただ目の前に横たわる想像も出来ない年数が怖いのだ。

後何十年と仕事をして、寝て食べて少し遊んで。今までは6年とか3年とかの区切りで、人生における新たな時代区分があった。

今はもう自分次第、いつどうなるかわからない。いくつになるまでになにがあって、という見通しもない。今が嫌になっても、2年後には卒業だからそれまでの我慢、というものもないのが恐ろしいのだ。

ひとはひとの、いろんな経験があって、それによって同じ事象でも受ける痛みや傷の深さは異なる。

わたしにも、上記のようなことがあったときは、わりかし本気で消えたい死にたいと思ったものだ。無論いまでも思う。

なるべく即死で、と願うばかりだ。

それでも、わたしはいじめで不登校にはならなかったし、兄への接し方に悩んだ時もなんとか考えたし、性的マイノリティで無理やり自己を歪曲させてヤケにもなっていない。

今はただ、嫌気がさしたり我慢ならなくなったら、いつでも自分で人生の時代区分を作ってしまえるのだと思ってなんとか。

今日が終われば明日、明日が終わればまた明日と、一日一日を生きて、楽観することで死にたい精神をなんとかしている。

わたしへ相談を持ちかけてきた多くのひとは、誰しもあなたのように強くはないのだと怒って泣いて、最終的にわたしを非難したけれど、わたしは強いわけではない。

逃げ方がうまいのだ。
うまいこと逃げるためにそっと努力もしたのだ。

逃げてなお死にたいひとは、死に方に配慮すれば、悲劇の主人公になれるかもしれないですよ、とだけ言っておく。

散々腹を立てて、生き返れこの野郎わたしが殺し直してやると思っていたわたしも、ご飯を食べれば機嫌も回復した。

ボロクソ言って申し訳ないけど、やはりあなたの死に方は正しくありません。
でも、人生お疲れ様でした。御冥福をお祈り申し上げます。

という、日記でした。
今日からわたし、ゴールデンウィークです。

字幕と吹き替えの差が楽しい


Harry Potter AND THE CHAMBER OF SECRET

ハリーポッターのDVDは三作目まで持っている。そこまでのダニエルしかハリーとは認められないからだ。

じつはアズカバンもぎりぎりだと思ってる。

たまたまなんとなく久しぶりに観たんだけど、いろいろとすっごいね。最後にハリーを観たのは最終作だったか…。ハリーもジェームズもどんどんクソ野郎になってくからもうなんか、悲しかったよわたしゃ。

で、やっぱりあの可愛かった頃のハリーがいいなと思って秘密の部屋。

楽しかった。カメラが見切れてたり小道具がちょいちょい前のカットとつながってなかったり。

日本語字幕で、原音と吹き替えを部分的に行き来しながら観たんだけど英語さっぱりなわたしでもちょいちょいわかる英単語があってそれも楽しい。

セリフはだいたい覚えてるから、そこから今なんていう単語だったのか考えられるし。

出だしでロンとハリーが空飛ぶ車に乗ってるとき、ハリーが「ロンまずいよ!マグルは空飛ぶ車を見慣れてないよ!」って。見慣れてないっていうかわたし見たことないっす!そういう言い回しイギリスならではなのかな~好き。

そのまますっぽーんと投げ出されちゃうハリーにロンが掴まれ!っていうところは「Hold on! Take my hand! 」。おお、聞き取れた感動。

ホグワーツに到着したとき「 Welcome home. 」って言ってて、字幕では「帰ってきた」だったんだけどこれは日本語でいうところの「ただいま」でいいのか。

オーストラリアでホームステイしたときは、いってきます・おかえり・ただいま・いただきます・ごちそうさまあたりの表現がなくてソワソワしたなあ。

あとなんか暴れ柳ちゃちくない?プラスチックみたいな質感なんですけど。

ピクシー妖精の吹き替え誰がやってるのか存じ上げないけどロングボトム持ち上げた時にちっちゃく「お前はそこにいろ~」って。

あと汚れた血め!のくだりでロンが「(マルフォイたちに対して)ヘドが出るよ!おえぇぇぇ」ってなるんだけどいやいやあんたナメクジ出てんで!

個人的におい!ってなったのが罰則を受けるシーン。ロックハートのファンレターの返事を手伝うハリー。

ロ「ハリーハリーハリー!」
(この時点で何回呼ぶのよと思った)
ロ「こんないい罰則はないでしょう!」
(役とはいえうぜえな)

っていうシーン。これに対する切り返しが素敵なんだけど吹き替えでは幼き日の小野賢章がうんざりした声音で「そうですね」。これ字幕には「どうかな」って!

そうですね、と、どうかな、は結構な差だよ!
本来はどういうニュアンスなの!
まったくもう大雑把!おもしろい!

クィディッチのブラッジャーからハリーを救うハーマイオニー
「フィニート・インカーターティム!」

ブラッジャー木っ端微塵。教員一同思ったんじゃないかな、やりすぎだよハーマイオニー…。

リジュースのためにクラッブとゴイルをカップケーキで眠らせるシーンで、なんの疑いもなく廊下に漂うケーキを食べる二人に対してのロン。

「ほんと馬鹿だな」
そうね。

完成したポリジュースを女子トイレで飲むシーンではもれなく3人ともグラスを床に叩きつけてバリーン。おい。いくら魔法でなおせるからっておい。

あとシーン前後するけど唐突にパーシー登場すると吹き替えが宮野真守で笑う。ずるい。さすが劇団ひまわり。ちなみにひまわりはBLCD出演NG事務所。

余談ですが。

ウッドだれかに似てると思ったら、テオ・ジェームズっていう新人俳優にちょっと似てる。テオのが男前だけど。ダイバージェント見てください、男前です。あと吹き替えが鈴木達央です。


っていう久しぶりにハリーを観たよっていう感想でした。

電車内、パウダールーム

たまに、見かける。
いや結構よく、見かける。

電車内でお化粧をしてるひと。

ところでわたしは基本すっぴんである。すっぴんに自信があるとかではなく、(もちろんそうだったら良かったのだけど残念ながらお化粧を積極的にしないといけない部類なのだが)如何せん肌が弱い。あとお化粧品のあの独特な香りがどうにも頭痛を誘うので苦手だ。

すっぴんのわたしからすると、お化粧をするひとは女性らしくて身だしなみに気を使っていて偉いなぁと思う。まあ、所詮は素材だ。ブスが化粧したところで美人にゃ敵わないとも思っているけど。

それに、目当てのひとを撃ち抜いたその美しい詐欺のような仮面を、いつ外すのかと疑問にも思う。

自分を磨きあげる自分のための変身アイテムだとすると、素晴らしい。見上げた努力である。

電車内でお化粧をするひとは、どっちなのだろうか。

わたしが電車内でお化粧をしようとするならたぶん、前者だ。
好きな人のために美しくなりたいから、だからほかの人はどうでもいい。じゃなきゃお化粧してる時のあのぶっさいくな顔を外では晒せない。

後者だったら、それこそ家や絶対に他人からは見えないところでないと意味がない。美しい自分、可愛い自分になりたくて、自分のためにする化粧だったらどの他人にもこんな、白目でまつ毛をくるくるさせてるところなんて見せたら一気に仮面が崩れてしまうように思うからだ。

もちろんわたしだったらだけど。

この前電車で見た女の子は、その化粧をしている姿に品がなかった。顔は中の上だったのに、品がなく見えた。大して崩れてない化粧を電車の中で直す様はなんだか可哀相だった。

こんなたくさんの視線がある中で、お化粧直しを我慢できないほど自分に自信がないのかな、とか、そのファンデーション塗るための変顔こんなにたくさんの人に見られてるのに気づいてないのかな、とか。

マナーっていうよりは、本人はそれでいいの?お化粧そんなにばっちりしてるってことは少しでも可愛く見られたいんじゃないの?って。

あとやっぱ、その独特の匂いは頭痛いし、パウダーがネイビーのスーツに飛んで目立って迷惑そうな隣の若いサラリーマンにも迷惑だし、電車内はパウダールームと違うんだから、やめた方がいいと思う。