pepetto

ぺぺっと不機嫌

いらないんです、あなたからは!

学生時代の話。
友人間で誕生日イベントがいくつかあった。

祝う側も祝われる側もなんどかあったけど、正直迷惑だし面倒だった。

好みも知らない、そもそもそんなに仲良くない、誕生日なの?へぇそうなんだおめでとうくらいの気持ちしかないよ!ってひとにもサプライズだプレゼントだなんだって。

これが、仲のいい友達ならいいけれどそうでないと悲惨。色紙書いて送るってそれどこの運動部よ。もらってもいらないし書くことないしそのくせ捨てるに困るし。

とにかく無償で与えられるものが不得意なわたしは、すぐさまお返ししないとそわそわする。

借りを作りたくないってわけではなくて、意図がわからないものを受け取ったままにできないのだ。

いちばん面倒なのは祝われる側だったときだ。
欲しくもないものを大量に持ち帰らされて、持ち帰っても処理に困って、バレッバレのサプライズに気づいてない演技、もっと難しいのは驚いた演技。

中学生かようざったい。そういうことをしてあげないと祝ってもらえないの?っていうかそれもしかして仲良しの儀式かなにか?相手のことほんとに思ってる?

たぶん普通の人は嬉しいんだろう。
わたしが極端にひどい奴なんだろう。

わたしと親しくしてくれている友人とは、当人と一緒にプレゼントを買いに行ったり、実用品をプレゼントしたりすることもある。

なにかいいものを見つけたら、それがなんでもない日でもプレゼントする。
誕生日にはおめでとうもない年もあるし、わたしも忘れてたりする。

誕生日だからって義務みたいに頑張って選んだプレゼントってなんとなくわかる。仕方なかったんだな、と思う。

そんなの厚意でもなんでもないから、やめてほしい。

もっとたまたま出会ったもので、そのときふとわたしが思い浮かんで買っておいてくれたり、一緒に買いに行こうって思ってくれたりしたらそれがいちばん嬉しい。

わたしは誕生日に送りたいものがなければ買わないし、誕生日でなくても送りたければ勝手に送る。
お返しはいらない、受け取ってもらえて、もしそれで喜んでくれたら幸せだと思う。

先日、友人にプレゼントをした。

お返しを用意したいと言ってくれて、無理にいいと返すと、たまたま遠出してるからついでになにかないかなって思ったけどなかったからやめた、送りたいものができたら送る〜と返ってきた。

すごく嬉しかった。

ムダに無理やりプレゼントしない。わたしが欲しそうかどうか考えてくれる。

プライズしたいだけの誕生会、酒を飲みたいだけの誕生会、自己満足の誕生会がきっとどこかで今日も開かれてることだろう。

だけど変に驚かせたりせずに、祝いたいから何して欲しいかきいてあげるだけで双方幸せになれると思うんだ。

と、捨てるに困ったまま引き出しに入っている色紙を見て思ったのでした。

サンタの味はきいてねえ

そのケーキ、おいしい?

って訊かれたときに、上に乗ってる砂糖菓子のサンタクロースの味を答えるのは、たぶん間違いである。

サンタはまずいけど、ケーキはおいしいよ。

ならわかる。ケーキの味についても言及してるから。
でも、サンタがまずい、とだけ答える人は物事の本質を見抜けていない人だと思う。

砂糖菓子のサンタがあまり美味しくないのは当たり前だし想像がつく。砂糖を固めて着色したものが、ケーキと肩を並べて美味なことなど希だ。

砂糖菓子のサンタは、ケーキの見た目に於けるデコレーションでしかない。


読む専門でアカウントを取得したnoteで、とある大学生が講義内で同性愛者を認めないといった同級生にブチギレた話を読んだ。

その同級生は、同性愛は少子化につながるので認めないと宣ったという。それはつまり、子供を産まなければ正しくないという意見だ。そしてそれは産みたくても産めないストレートの恋人たちや、それぞれの理想とする結婚で子供を作らないとしている夫婦、精子の少ない男性、病気で子宮を摘出しなければならなかった女性たちをも認めないという意見に遠くない。

恐らくその同級生は自分の発言がそこまで至るとは考えてもないだろうと思う。考えてもないということは、ただあなたが理解できないだけでしょうと言いたくなるのだけど。

さて、noteの筆者はその講義内で応戦。ぐぅの音も出ないほどに追い詰めたまではよかったが、最終的に同性では子供を作れないという事実は覆ることはない。その同級生の意見を変えるには至らなかったのが悔しかったようだった。

問題はそのnoteに対するコメント欄で起こった。

コメント欄ははじめ、そのひとがマイノリティ派に立って応戦してくれたことに関する感謝や、そういう考え方もあるかもしれないとか、同級生の方に立って意見したりとかいうコメントが寄せられた。

そのnoteにある記事の本質的な議論だとわたしは思う。

なのに少しして、筆者の口の悪さを叩き始める人が増えた。筆者は確かに怒っていて、同級生に対してそのnote内で暴言を連ねた。それは、怒りのなすがままに発散したのだと思う。

それからのコメントは暴言を吐いたら正論も正しさを失うとか、そこまで暴言を吐くのは筆者が馬鹿だとかいう暴言に論点をおいたコメントになってしまって、さらにこの記事において口の悪さは問題ではない、という意見に、馬鹿かよそんな事いったら何言ってもいいことになるだろうがというコメントが寄せられて。

罵倒罵倒のまた罵倒罵倒。

筆者はうんざりしたろう。わたしもうんざりだ。

暴言は怒りを表すデコレーションだ。もちろんそれは、暴言を吐いてもいい、ということにはならない。だけど、わかるでしょう。筆者は腹が立ったから、その日あった出来事をnoteに投稿した。それはただのブログや日記と同じだ。

当人に向かって死ねだとか言ったわけではないし、事実言いたかったのをこらえてこっそり発散したのだ。
そしてそれは、読んだわたしたちに向けられた暴言ではない。不快に思うのなら読まなければ良いのだ。冒頭数行を追えば、筆者の口調や気持ちの高ぶりが容易に想像ついた。つかないのなら読解能力が足りないのだ。

書き手は読み手のことを考える必要がそんなにあるか。
そんなに誰かに萎縮して書かなければならないか。
読者が取捨選択するべきだとわたしは思う。

そしてこの場合、わたしは暴言があったおかげですっきりした。同じ意見だからだと思うけど、わかるわかる!もっといったれ!と。

デコレーションとは本質をより伝えやすくするものだ。サンタが不味いのはケーキの味を引き立たせるためであり、見た目をキュートにし食欲を増進させるためだ。そしてその砂糖菓子がサンタであるならば、それはクリスマスを指し示す目印にもなる。

note内での暴言は、その同級生が考えもなく100人以上の人が話を静かに聞く講義内で、他人の気持ちを慮らなかった発言をしたことに対して猛烈な怒りを覚えたことを伝えるためのサンタだった。

そしてこの場合、議論されるべき本質はおそらく、少子化の原因が
必ずしも同性愛者か?それを講義内でたくさんのひとを傷つけて言った同級生は正しかったか?応戦の文句は間違いではないか?などだ。

少なくとも、筆者の暴言が正しいか正しくないかではない。

話をすり替えて、さも正論だとでもいうように暴言を排除する人達は嫌いだ。暴言はときに有効な武器であり、使い道はある。
他者を傷つけてはいけないということを、広域に捉えすぎてはいないか?

考え直して欲しい。

暴言は、死ね、バカ、などの言葉ではない。相手がいて、その相手のいちばんきついところを抉るのが暴言だ。筆者はその同級生の行動の愚かさに腹が立ち、論の根拠のなさに呆れて憤ったが本人には投げていない。

これは、理性で留まったということではないの?
わたしには、そのコメント欄で的はずれな論争をしていたひとたちが、note内の文章についてはよくわからないけどこういうのに一枚噛んでおいたらなんか社会派ぽくない?頭いいからさ〜わたし〜っていう人たちに見える。

わたしが筆者に感謝を伝えるために思い切ってカムアウトしたコメントは、そうやってたくさんの意味のない論争に流された。

その論争をしていた人達は気付いているか。

そこで仲間を見つけられると思って、おなじ気持ちの人がいると思ってしたコメントを暴言はダメだよ!なんてクソ当たり前の正義感で潰されたわたしのコメントに。傷ついているわたしがいることに。

本質がわかってる人は、コメント欄でそんなことを言い合わない。

筆者はケーキの味をたずねたのだ。
そこでサンタの味の論争をされても…ほとほと呆れるわ。

サンタがまずいのも暴言がよくないのも周知の事実。
そこを掘り下げようだなんて、暇なの?

と、少し前に思った次第。

ちなみにわたしはそのコメント欄で馬鹿みたいにヒートアップして見当はずれな論争をしてる人達み〜んな、この世に一切の跡を残さず消え去ればいいのにと思いましたね。

2015年に幼い時代を過ごすということ

当たり前に誰にでも中学時代はある。
その年の頃がいかに子供で、いかに判断力に欠けていたのかを知るのはせいぜい齢20過ぎたころか。

いや、高校生が中学の時のことを黒歴史だと話すくらいだから17、8歳で悟るのかもしれない。

誰にでもある中学時代は常に時代に流されていて、わたしの中学時代と今の中学生では常識も興味も勉強の範囲ですら違う。

今日、会社の先輩のいとこの悩みを聞いた。

彼女は中学生で、友達とのLINEに悩んでいるらしい。

そう聞いてわたしは、話の流れとかグループトークから弾かれてるとかそういうことかと思ったのだがどうも事態はもっと悍ましかった。

LINEにはトークのほかにタイムラインがある。

そのタイムラインにバトンと呼ばれるものが回されるのだと言う。
わたしの時代にもバトンはあった。

LINEは今ほど普及してなかったのかそれとも存在してなかったのか、わたしやわたしの周りは使っていなかったのでブログだとか前略プロフィールmixiといったSNSで回されたものだ。

そのときも『閲覧したら絶対に3人に回すこと!』とか『足跡で見た人はわかります!』だとか言って強制ではあったけど、事実そのことばの効力は微力だったように思う。

本当に足跡が見えたのかわたしは知らないし、バトンをやらなかったからと言ってそれがバレた試しはなかった。

ところが2015年現在、LINEで行われるバトンは名指しだという。

回す人は個人名で次の人を指名し、された方はいいね!で見たことを示し、さらに回す。
指名されてない人でも、いいね!をしなかった人は次の日からは無視されて存在を消されるのだという。

わたしだって結構なイジメを経験してきたわけだけど、わたしの時代は匿名性が加害者の武器だった。

それはそれでえげつなかったし最低の行為だったけど、その分逃げ道を作ることができた。
あまりいいやり方ではないけれど、加害者も被害者もわたしでない誰かでよかったのだ。ひとでなくても友達でなくても、なんでもだ。ものでも現実であったことのないひとでも。

だけどどうも時代が流れたのか、現代の加害者の武器は真逆だ。

これってすごく怖いことだと思う。

そのバトンが死刑宣告と同じに思えてしまうひとがきっとどこかにいるんだろう。

どうしていじめがあるのかとか、なくそうだとかそういうのは思わない。思っても考えても現状苦しい人は苦しいし、意味がない。

だけどどうかせめて、常に逃げ場のあるいじめ方であればいいのにと切に願う。

その逃げ道を見つけられるかどうかくらいは、自力で頑張ってほしい。
だれも助けてはくれないのは、その時代のそのイジメだけでないから強くあって欲しい。

その強さは精神的に折れない強さではなくて、逃げ道を見つける賢さというか小賢しさ。

わたしの持論だけど、全てにおいて原因は使うひとにある。
LINEが悪いというひともいるし、発達した機械や技術に全責任があるかのように考える人がいるけれど、それだけは違う。

必ず、悪意ある使い方をしたひとがいるというだけのこと。

それにしても、現在を幼いころに生きるという誰しも必ずあることがここまで苦しい時代になるとは。

世も末だなぁ。

写メばっかり、それも手元の食べ物の

カメラ女子が流行ったとき、
きっとおじさんおばさんは思ったと思う。

食べ物を温かいうちに食べずに、
ファインダーを覗いてどうするの?

もちろんわたしも思った。

わたしは家でも友人宅でも基本つくる側だ。
料理の上手い下手は好みの差。
だけど、とりあえずはおいしいと食べてもらえる。

姉と二人暮らしをしていたとき、わたしが先に食べるときもあった。

食べ終わっていても、姉の帰宅時間に合わせて温め直したり、完成の手前まで作っておいて姉が帰宅したら出来上がるように図ってつくっていた。

おいしいは好みの差。

だけど絶対的においしい、物理的な温度ではない温度があるように思う。

その絶対的においしい温度でサーブするために、つくる側がどれだけ骨を折っているか考えて欲しい。

それはカメラ女子やすぐになんでも写メってSNSに載っけるひとたちの自由を非難しているわけではない。本当に被写体の本質を広めたいだけならば、それはそれでいいと思う。

だけど、わたしからすればSNSになんでもパッシャパシャ撮ってる人たちは自慢がしたいのだ。

流行りのお店でかわいいスイーツを食べた。ほら、見てこんなにかわいいのって。

そうじゃなくて、見てこれすごくかわいいでしょ、この技術は素晴らしいよ!みたいな気持ちだったら、作り手もすこしは報われるのに。

食べずに撮ってツイート。やってることは同じだけど、根本的に気持ちが違う。

前者は作り手の気持ちをごっそり無視してる。

わたしはいちばん楽しい時の写真が少ない。
同じように一緒に遊んでいた友人も持ってなかったりする。

そのときそこにいたわたしたちは、みんなで全力でおいしいと思ったり楽しいと思ったりしてるからだと思ってるんだけど、どうだろうか。

よくわからないけど、楽しい時に写メられるとわたしは白ける。楽しくない。

ああ、このひとは今を楽しいと思うよりも後で写真をアップすることを考えてるんだなと思って不愉快に思う。

ひとを撮ればいいのに、手元の、目の前のちいさなものばかりだ。

やな感じ。

わたしもそうなのだろうか。ネットに写真を上げる前に今一度、考えてからにしようと思う。

死ぬなら勝手に死にやがれ!

電車への飛び込み自殺があった。
わたしへの実害といえば乱れたダイヤのせいでうまいこと帰省できなかったことぐらいだ。

ことぐらい、と言いながらわたしは自殺したひとに殺意を抱いている。

帰りのプランや時間配分を組み直し、迎えに来てくれている両親を長らく待たせてしまったし、なによりいつどの電車に乗れば良いのかわからぬまま1時間も立ち往生した。

疲れた。

帰りも遅くなった。散らばった肉片を片付けたひとたちに同情した。

こんな死に方でなければ、人に迷惑さえかけなければ同情されたかもしれないのに、こんな死に方を選ぶから死んでなおいろんな人にふざけんなよと思われるのだ。

そういう死に方しか選べないようなひとだから、生きてるあいだもうまいことできなかったんじゃないの?と思ってしまう。

わたしは冷酷で残忍でひととして最低なのかもしれない。

昔から自殺するやつは馬鹿だと思っている。

すごくバッシングされそうな発言だけど、だけどわたしの人生経験ではそう思ってしまうのだ。

自殺が悪いことだとは思わない。
ひとそれぞれ辛いこと、やるせないこと、どうしたらいいかわからないこと、どうしようもないことがあるんだと思う。

死にたいと思うことがあるんだと思う。

それにしたって、山で深く穴掘って、その中で焼身自殺とか餓死とかしたら、飛び込みよりよっぽど静かで迷惑も最小限、かつ運がよければ土に還れるのに。

そもそもなんでそんな死を選ぶか不思議だ。

保育園時代、兄が事故って植物状態になった。広い広い家にひとりで、集中治療室の前でいつ止まるやもしれない兄の心臓に念を送る家族を恨んだ。

わたしもその場にいたかった。遊んでくれた兄が死ぬならそのときそばにいたいし、不安な状態でひとりでいたくなかった。

2度、心臓は止まった。幸い3度目はまだない。

復活した兄は右半身麻痺で、障害者手帳
重度を意味するランク。家族全員が接し方や生活に戸惑った。

学生時代いじめがあった。
いじめる方にもいじめられる方にもなった。ストレスで視野が狭くなって、目が回って熱が出て、なんとか教室を出てトイレに行って吐いた。

保健室まで歩けなくて、良く見えない目で誰かがおぶって保健室に運んでくれた。保健の先生だった。どうしたの?と訊かれて具合が悪いと言った。なぜかと問われて、なにかいうより先に涙が出た。

泣いて、熱が上がって、一時間休んで、授業に戻った。

小学生の時、中学の時と何度かそういったことがあったけど、保健室で、誰かの前で泣いたのは吐いたあの時が最初で最後。

小学校高学年で、少しだけ自分に違和感を感じてそれから現在。

自分の性癖が少数派だと知って、そのことに関して家族や周りのひととの対応に悩んでいる。

自分が性的マイノリティかもしれないと思い至ったときの日記は、今見ても涙が出る。

なんとかしなくちゃとなんとか直さなくちゃと思い、それが無理なら普通を装おうとする自分が、今なお筆圧の強さと滲んだ水彩インクの中にいる。

社会人になった今、途方も無い人生の時間に気が遠くなって死にたいと思っている。
何が嫌ということもない。ただ目の前に横たわる想像も出来ない年数が怖いのだ。

後何十年と仕事をして、寝て食べて少し遊んで。今までは6年とか3年とかの区切りで、人生における新たな時代区分があった。

今はもう自分次第、いつどうなるかわからない。いくつになるまでになにがあって、という見通しもない。今が嫌になっても、2年後には卒業だからそれまでの我慢、というものもないのが恐ろしいのだ。

ひとはひとの、いろんな経験があって、それによって同じ事象でも受ける痛みや傷の深さは異なる。

わたしにも、上記のようなことがあったときは、わりかし本気で消えたい死にたいと思ったものだ。無論いまでも思う。

なるべく即死で、と願うばかりだ。

それでも、わたしはいじめで不登校にはならなかったし、兄への接し方に悩んだ時もなんとか考えたし、性的マイノリティで無理やり自己を歪曲させてヤケにもなっていない。

今はただ、嫌気がさしたり我慢ならなくなったら、いつでも自分で人生の時代区分を作ってしまえるのだと思ってなんとか。

今日が終われば明日、明日が終わればまた明日と、一日一日を生きて、楽観することで死にたい精神をなんとかしている。

わたしへ相談を持ちかけてきた多くのひとは、誰しもあなたのように強くはないのだと怒って泣いて、最終的にわたしを非難したけれど、わたしは強いわけではない。

逃げ方がうまいのだ。
うまいこと逃げるためにそっと努力もしたのだ。

逃げてなお死にたいひとは、死に方に配慮すれば、悲劇の主人公になれるかもしれないですよ、とだけ言っておく。

散々腹を立てて、生き返れこの野郎わたしが殺し直してやると思っていたわたしも、ご飯を食べれば機嫌も回復した。

ボロクソ言って申し訳ないけど、やはりあなたの死に方は正しくありません。
でも、人生お疲れ様でした。御冥福をお祈り申し上げます。

という、日記でした。
今日からわたし、ゴールデンウィークです。