pepetto

ぺぺっと不機嫌

チケットをご用意させていただきました。


地獄だか天国だかへのチケットに当選した。


Kiramune とかいうレーベルのキラフェスなるイベントだ。
神谷浩史が出ているからとe+から通知が来て何気なくぺっと申し込んだらご用意されてしまった。

お金を振り込むか迷った。
そこまで熱がないからだ。

本当に会いたくてどうしようもないひともいるだろうが、わたしは彼の歌う姿を生で見たいと思ったことは無い。

そもそも神谷浩史というひとは人気がありすぎる。ファンが怖い。だからそんな集いにいけばどうなることやらという心象だ。

結局行くことに決めたのだけど。
お祭り騒ぎはよく知らなくても楽しいし。
せっかくだし。

ところでわたしは神谷浩史を応援している。

キャーキャーはしないし、逐一新情報をチェックしたりしないし、出演作を見たりもしないけど、ああすごいなぁと思って見ている。

ときどきCDやDVDを買う。

好きな声は藤原啓治安元洋貴と、声はタイプではないのだけど、彼の演技がいくつになっても成長していくことに驚いてつい。

何年も前から聞き続けているラジオのせいか、声も聞き馴染んでしまった。

きっかけは、兄と誕生日が同じだったこと。
それから、兄と同じように夏に事故っていること。
兄と同じように心肺停止していたこと。
同じように奇跡的な復活。
それから、兄と同じようにユニコーンが好きなこと。

身近な人と共通点が多いと親近感がわく。

彼の事故からの復活をよろこんだ周りの同業者や御両親が笑顔でいられるように、彼には笑っていてもらいたいなぁとも思う。

無論、彼自身の魅力にも惹かれているのだが。

それにしても、サイリウムも振らないしリズムをとったりしもしない地蔵が、6時間のキラキラしたライブにいていいものだろうかと不安な限りである。

下手したら体力がもたずにずーっと座ってる可能性もあるのだけれど、隣の席の人が熱烈なファンで叱られたらどうしようかなどと想像して戦々恐々とするくらいには、楽しみになってきた。




国民的アイドル

国民的アイドル、というものを信じていない。
ぽっと出の新人アイドルだって、朝ドラに出たりミスなんちゃらに輝いたりするとすぐにそう銘打たれる。基準がわからないものは言ったもん勝ち。
「〇〇だと思う者には〇〇で、××だと思う者には××だ。〇〇だと思わない者には〇〇でなく、××だと思わない者には××でない。」というような曖昧なものなのではないだろうか。

それでも、SMAPは国民的アイドルだったと思う。

そう思う理由のひとつとして、わたし自身がSMAPメンバー全員の名前を幼い時から知っていたこと。
わたしは幼い頃ほぼテレビを見ずに育った。その当時見ない日はない芸能人ですら名前も顔もわからない状態だった。周りの女の子がいわゆるジャニヲタや追っかけに目覚めていたころ、ジャニーズと言うジャンルそのものに嫌悪感すらあった。

そんなわたしですら知っていて当たり前だと思っていたのだから、わたしの中では間違いなく国民的アイドルだったと思う。

ジャニーズを嫌悪していたのには、まず第一に「気持ち悪い」というのがあった。
わたしと同い年かそれ以下の年齢のころから、ジャニーさんに利用されているように思えてならなかったし、ジャニーさんの事務所の力も異常で囲っているように見えたし、ファンの熱量が何かの宗教に見えて恐ろしかった。上記を総称して漠然と「気持ち悪い」と感じていた。

ジャニーさんの許可のおりた奇麗な仕事を、王子様になってこなす。
無論それがアイドル自身の意思に沿う時もあり、沿わぬ時もありだろうけれど、昔のジャニーズはもっと鼻についた。事務所の力の方がアイドル本人より前に出てた時代だったのだ。

現在はバラエティでいろんなことにチャレンジしているし、かっこ良くない部分でもキャラクターとして受け入れられている。その足掛けはSMAPだったかもしれないなあと思う。
今のジャニーズは好感が持てる。

最近、SMAPが解散するのしないので世の中がざわついているらしい。

正直に言えば、解散させてあげればいいじゃないと思う。

あどけなさの残るデビュー当時の彼らを見て、現在の彼らを見て、彼らの人生を語る上で欠かせないものとして「SMAP」があると思う。彼らも不惑。未成熟なころから、不惑までSMAPをやってきた。

仮に方向性の違いだとかネガティブな理由でグループを辞めるにしても、ここまで続けてきたのに今更だ。今から腰を上げるってことは、彼らにとってなにかしたいことや思うところがあるのだ。芸能界での余生なのか、人生での余生なのかは知らないが、もう十分「国民的アイドル」をやってのけたと思うのだ。

SMAPという国民的アイドルであるかぎり、ワークライフバランスは偏る。

こういう話題が出た時点で、解散は決まったようなものなのでは?
じゃあ存続しますと言ったところで、気持ちが離れてるのはもう見て取れたし、わだかまりが残るだけでは?

名言はしないものの、一応の存続ということらしいが…

死ぬときに、もっと自分のために生きればよかったって後悔しない生き方をしてほしい。
アイドルだって人間だもの。もう頑張ったもの。

クロールした後、力を抜いて仰向けにプールに浮かびたくなるでしょ?
浮かびながら息を整えて、次はなに泳ぎしようかな〜とか思うでしょ。

わたしは思う。そんで生きてるすべての人に、その水面に浮かんで次を考える時間が許されていると思ってるので、解散したらいいじゃない!

お疲れさま、世界に一つだけのオンリーワン!

っていうお話でした〜

まずは自分でググれカス

今月、先輩のひとりが寿退社する。

明日はその送別会を若い衆でやるらしい。今日きいた。明日の夜の予定をナイトプールに行こうと画策していたがキャンセルになりそうだ。

プレゼントはどうやら隣席の先輩が担当しているらしい。

お別れ会を明日に控えた、今日も終わる終業間近、企画主の方から『プレゼント選び迷ってるみたいやから、女子目線から助けやって』とメールが来た。

それとなく隣席の先輩にスカイプで話を聞くと、案を出せと返ってきたので、結婚祝いって言ったらこんな感じが定番ですよね〜といくつか案を出した。

対する返答は、言葉を濁してはいたが結局のところ『イマイチ』。

そのくせ、早く案だして!とちょいちょい送ってくる。冗談のノリなのは理解していたので、わたしは「女性 贈り物」で検索して一番最初に出てきたランキングの21位にランクしていたキーケースを案として送った。

『それいいじゃん』だそうだ。

女性でキーケースはあまり身近でないように思う。使い道も限定されているから使わないタイプの人だったらアウトだし、わたしならいらないと思ったが、わたしより付き合いも長いし、なにか良いと思えるところがあるんだろうなぁと、なにはともあれ決まってよかった〜!お役目御免!とほっとしていたとこへ『キーケース調べてみて!』と送られてきた。

調べてみてって…先輩、目の前にパソコンありますよ。ググったらいいじゃないですか。

そもそもキーケースいいじゃん!と返ってきた時点でこのひとはプレゼントを考える気がさらさらなかったのだと気づいた。

検索して一番最初にヒットしたページを読んでもいない。たぶん検索すらしてない。
その上、調べてみて!ときた。

わたしはスカイプしながらも仕事を進めていたが、時間はすでに定時を超えていた。隣席の先輩はYouTubeを見ていた。

わたしより付き合い長いから多少知ってるだろうと思って好みを聞いても、見てれば自ずとわかるであろうと返ってくる。冗談のつもりだろうが、何も面白くない。

調べましたとも。調べて大体の値段とURLを送った。

とりあえず今日はそれで終わりになったが、これプレゼント担当の大変なところわたしがやってない?別にいいけど。

考えるつもりがない人と話すのはイライラする。
考えてないひとが、考えるつもりがないひとが、考えてるわたしに遅い、早く、それはない、え〜ありきたりじゃ〜んとか。
そういう人に限って何を言っても冗談だよ、ジョークだよで許されると思ってるのだ。

キーケース調べてみて!と先輩に言われたとき、
はぁ?と思うと同時にggrksってこういう時に使うんだなぁとしみじみ思った。

ところでお別れ会は焼肉なんだが、わたしは親しい間柄以外のとの焼肉があまり好きじゃないうえにたぶん飲み放題付だけどお酒飲めないんだぜ。

社会って大変だなぁ。

いらないんです、あなたからは!

学生時代の話。
友人間で誕生日イベントがいくつかあった。

祝う側も祝われる側もなんどかあったけど、正直迷惑だし面倒だった。

好みも知らない、そもそもそんなに仲良くない、誕生日なの?へぇそうなんだおめでとうくらいの気持ちしかないよ!ってひとにもサプライズだプレゼントだなんだって。

これが、仲のいい友達ならいいけれどそうでないと悲惨。色紙書いて送るってそれどこの運動部よ。もらってもいらないし書くことないしそのくせ捨てるに困るし。

とにかく無償で与えられるものが不得意なわたしは、すぐさまお返ししないとそわそわする。

借りを作りたくないってわけではなくて、意図がわからないものを受け取ったままにできないのだ。

いちばん面倒なのは祝われる側だったときだ。
欲しくもないものを大量に持ち帰らされて、持ち帰っても処理に困って、バレッバレのサプライズに気づいてない演技、もっと難しいのは驚いた演技。

中学生かようざったい。そういうことをしてあげないと祝ってもらえないの?っていうかそれもしかして仲良しの儀式かなにか?相手のことほんとに思ってる?

たぶん普通の人は嬉しいんだろう。
わたしが極端にひどい奴なんだろう。

わたしと親しくしてくれている友人とは、当人と一緒にプレゼントを買いに行ったり、実用品をプレゼントしたりすることもある。

なにかいいものを見つけたら、それがなんでもない日でもプレゼントする。
誕生日にはおめでとうもない年もあるし、わたしも忘れてたりする。

誕生日だからって義務みたいに頑張って選んだプレゼントってなんとなくわかる。仕方なかったんだな、と思う。

そんなの厚意でもなんでもないから、やめてほしい。

もっとたまたま出会ったもので、そのときふとわたしが思い浮かんで買っておいてくれたり、一緒に買いに行こうって思ってくれたりしたらそれがいちばん嬉しい。

わたしは誕生日に送りたいものがなければ買わないし、誕生日でなくても送りたければ勝手に送る。
お返しはいらない、受け取ってもらえて、もしそれで喜んでくれたら幸せだと思う。

先日、友人にプレゼントをした。

お返しを用意したいと言ってくれて、無理にいいと返すと、たまたま遠出してるからついでになにかないかなって思ったけどなかったからやめた、送りたいものができたら送る〜と返ってきた。

すごく嬉しかった。

ムダに無理やりプレゼントしない。わたしが欲しそうかどうか考えてくれる。

プライズしたいだけの誕生会、酒を飲みたいだけの誕生会、自己満足の誕生会がきっとどこかで今日も開かれてることだろう。

だけど変に驚かせたりせずに、祝いたいから何して欲しいかきいてあげるだけで双方幸せになれると思うんだ。

と、捨てるに困ったまま引き出しに入っている色紙を見て思ったのでした。

サンタの味はきいてねえ

そのケーキ、おいしい?

って訊かれたときに、上に乗ってる砂糖菓子のサンタクロースの味を答えるのは、たぶん間違いである。

サンタはまずいけど、ケーキはおいしいよ。

ならわかる。ケーキの味についても言及してるから。
でも、サンタがまずい、とだけ答える人は物事の本質を見抜けていない人だと思う。

砂糖菓子のサンタがあまり美味しくないのは当たり前だし想像がつく。砂糖を固めて着色したものが、ケーキと肩を並べて美味なことなど希だ。

砂糖菓子のサンタは、ケーキの見た目に於けるデコレーションでしかない。


読む専門でアカウントを取得したnoteで、とある大学生が講義内で同性愛者を認めないといった同級生にブチギレた話を読んだ。

その同級生は、同性愛は少子化につながるので認めないと宣ったという。それはつまり、子供を産まなければ正しくないという意見だ。そしてそれは産みたくても産めないストレートの恋人たちや、それぞれの理想とする結婚で子供を作らないとしている夫婦、精子の少ない男性、病気で子宮を摘出しなければならなかった女性たちをも認めないという意見に遠くない。

恐らくその同級生は自分の発言がそこまで至るとは考えてもないだろうと思う。考えてもないということは、ただあなたが理解できないだけでしょうと言いたくなるのだけど。

さて、noteの筆者はその講義内で応戦。ぐぅの音も出ないほどに追い詰めたまではよかったが、最終的に同性では子供を作れないという事実は覆ることはない。その同級生の意見を変えるには至らなかったのが悔しかったようだった。

問題はそのnoteに対するコメント欄で起こった。

コメント欄ははじめ、そのひとがマイノリティ派に立って応戦してくれたことに関する感謝や、そういう考え方もあるかもしれないとか、同級生の方に立って意見したりとかいうコメントが寄せられた。

そのnoteにある記事の本質的な議論だとわたしは思う。

なのに少しして、筆者の口の悪さを叩き始める人が増えた。筆者は確かに怒っていて、同級生に対してそのnote内で暴言を連ねた。それは、怒りのなすがままに発散したのだと思う。

それからのコメントは暴言を吐いたら正論も正しさを失うとか、そこまで暴言を吐くのは筆者が馬鹿だとかいう暴言に論点をおいたコメントになってしまって、さらにこの記事において口の悪さは問題ではない、という意見に、馬鹿かよそんな事いったら何言ってもいいことになるだろうがというコメントが寄せられて。

罵倒罵倒のまた罵倒罵倒。

筆者はうんざりしたろう。わたしもうんざりだ。

暴言は怒りを表すデコレーションだ。もちろんそれは、暴言を吐いてもいい、ということにはならない。だけど、わかるでしょう。筆者は腹が立ったから、その日あった出来事をnoteに投稿した。それはただのブログや日記と同じだ。

当人に向かって死ねだとか言ったわけではないし、事実言いたかったのをこらえてこっそり発散したのだ。
そしてそれは、読んだわたしたちに向けられた暴言ではない。不快に思うのなら読まなければ良いのだ。冒頭数行を追えば、筆者の口調や気持ちの高ぶりが容易に想像ついた。つかないのなら読解能力が足りないのだ。

書き手は読み手のことを考える必要がそんなにあるか。
そんなに誰かに萎縮して書かなければならないか。
読者が取捨選択するべきだとわたしは思う。

そしてこの場合、わたしは暴言があったおかげですっきりした。同じ意見だからだと思うけど、わかるわかる!もっといったれ!と。

デコレーションとは本質をより伝えやすくするものだ。サンタが不味いのはケーキの味を引き立たせるためであり、見た目をキュートにし食欲を増進させるためだ。そしてその砂糖菓子がサンタであるならば、それはクリスマスを指し示す目印にもなる。

note内での暴言は、その同級生が考えもなく100人以上の人が話を静かに聞く講義内で、他人の気持ちを慮らなかった発言をしたことに対して猛烈な怒りを覚えたことを伝えるためのサンタだった。

そしてこの場合、議論されるべき本質はおそらく、少子化の原因が
必ずしも同性愛者か?それを講義内でたくさんのひとを傷つけて言った同級生は正しかったか?応戦の文句は間違いではないか?などだ。

少なくとも、筆者の暴言が正しいか正しくないかではない。

話をすり替えて、さも正論だとでもいうように暴言を排除する人達は嫌いだ。暴言はときに有効な武器であり、使い道はある。
他者を傷つけてはいけないということを、広域に捉えすぎてはいないか?

考え直して欲しい。

暴言は、死ね、バカ、などの言葉ではない。相手がいて、その相手のいちばんきついところを抉るのが暴言だ。筆者はその同級生の行動の愚かさに腹が立ち、論の根拠のなさに呆れて憤ったが本人には投げていない。

これは、理性で留まったということではないの?
わたしには、そのコメント欄で的はずれな論争をしていたひとたちが、note内の文章についてはよくわからないけどこういうのに一枚噛んでおいたらなんか社会派ぽくない?頭いいからさ〜わたし〜っていう人たちに見える。

わたしが筆者に感謝を伝えるために思い切ってカムアウトしたコメントは、そうやってたくさんの意味のない論争に流された。

その論争をしていた人達は気付いているか。

そこで仲間を見つけられると思って、おなじ気持ちの人がいると思ってしたコメントを暴言はダメだよ!なんてクソ当たり前の正義感で潰されたわたしのコメントに。傷ついているわたしがいることに。

本質がわかってる人は、コメント欄でそんなことを言い合わない。

筆者はケーキの味をたずねたのだ。
そこでサンタの味の論争をされても…ほとほと呆れるわ。

サンタがまずいのも暴言がよくないのも周知の事実。
そこを掘り下げようだなんて、暇なの?

と、少し前に思った次第。

ちなみにわたしはそのコメント欄で馬鹿みたいにヒートアップして見当はずれな論争をしてる人達み〜んな、この世に一切の跡を残さず消え去ればいいのにと思いましたね。