pepetto

ぺぺっと不機嫌

涙と悲しみはイコールか。

涙がでるようになった。
今年ももう、あと少しだ。

6月、父方の親戚のお葬式があった。訃報を聞いた時は、おお…まじか…という、なんの色もついていない驚きという衝撃だった。

亡くなったのはわたしの叔母さんのお義母様で、こう言ってはなんだが、ただただ呼吸をしているような、そんな晩年だったように思う。
叔母さんは長いこと、それはもう大変な介護をしていた。

わたしがこの訃報を飲み込んで落ち着いた頃には、叔母さんが楽になれるなと思ったし、もうずっと意識もあるんだかないんだかで会話もなく反応もなくだったせいか、悲しみというものは正直、少しも浮上しなかった。
おぼろげに思い出される記憶と、老いて小さくなった姿があまりにも遠く、実感がないというのもあったのかもしれない。

式はまるで軽く、梅雨時期の不思議な気温と明るさと空気で、久しぶりに会う親戚と世間話をして、悲しみに溢れたものではなかった。

出棺になって、最後に顔を見て、花でお棺を埋めるとき、叔母さんがお棺に凭れるようにしゃがみこみ、泣いた。

叔母さんや、近所のひとが堰を切ったように泣き出して、驚くと同時に初めてわたしは、ひとの死を実感したのだ。
いのちはすでにないけれど、からだがそばにあるうちはまだ、みんな普通だった。からだが運ばれていくその直前に、本当に本当のお別れを実感したのだろうか。

みんな何度もひとの死を経験しているはずだ。そこにからだがあったって、亡くなっていることはわかっているはず。なのに。それとも、そのひとのことが自分の記憶のなかだけになってしまうことに泣くのだろうか。

そしてその涙は、悲しみなのだろうか。

わたしも泣いた。泣き崩れる叔母さんを見て、もらい泣きする母を見て。悲しいかと問われると、わからない。悲しいってどんななのか、正直わからない。でも泣くことがイコールではないように思う。

もっと複雑な気持ちだったような気がする。

人の死で泣くのはなぜだろう。
悲しいとはどういうものだろう。

数日後に、今度は母方の親戚のお葬式に参列する。
そのひととはつい最近いっしょに食事をした。
94歳、自然死だという。

この度のお葬式で、なにか一欠片でも「ひと」について得られればいいと思う。
そして、恐らく純粋な気持ちで涙する自分を、存分に不思議がって、考えられればいいと思う。

ただ、悲しみに満ちたものではないこの日本の文化は、不思議だ。